明日は明日の風が吹く・70代日々の綴り


今更になって生きてる意味を考えても仕方がない
今、生きてる事が重要
来るであろう明日、来ないかもしれない明日
人はそう言う薄氷の上で
毎日を過ごしてるのだと思う
だから、今日が大事、今が大事
明日は明日の風が吹く

母の命日、母の記憶

今日は母の命日だ。
もう、あまりに遠すぎて記憶も薄れてしまう。
母は、私が10歳の時に亡くなった。
48歳だった。


私を産んだ後
いわゆる産後の肥立ちが悪いと言う事で
記憶の中の母は、いつも横になっていた。


ほとんど外には出なかったが
たまに気分のいい時は、家先に椅子を出して座っていた。


学校の行事に来た事もない、
一緒にどこかへ出かけた事もない。
それでも母親が家にいた。


病院の先生が週に一度くらい来て
お腹に溜まった水を抜いていたから
たぶん相当悪かったのかも知れない。


母は、ある夜台所で倒れていたのを
私が目を覚まして見つけた。
その時、2番目の姉は、いとこたちと一緒に
町まで映画を見に行っていて留守。


私は母の実家、本家まで走って行って
叔父や叔母に知らせた。


歩いて数百歩の真っ暗な道が、
今でもスローモーションのように
長く感じたのが記憶に深く残っている。
最終的には心臓麻痺らしかった。


そこから慌ただしい日々が続いた。
実感はなかった。
父親が東京からいつ戻って来たのかも記憶にない。


父は勿論東京から帰って来ていた。
居酒屋を営んでいた父と長姉も一緒に戻ったらしいが
そこを覚えてない・・


昔の田舎の葬儀は言ったらなんだが
一大イベントだ。
大勢の人が集まる。


数日、私は本家の従兄弟たちと本家で過ごした。
その間に葬儀も終わり
ひと月後には、私は東京にいた。


家には次姉と私だけになったが
ずっと田舎にいるものだと思ったのに
あれよあれよと都会っ子になった。
(嘘です、いなかっぺだった)


東京の小学校に転校し、先生がみんなに紹介する時
「山形から来た〇〇さんです、
皆さん、山形と言えば何が名産でしょう?」と聞くと
生徒のほとんどが口をそろえて
「さくらんぼです!」と言った。


さくらんぼが名産?🍒🍒
始めて知った・・・(笑)


母が居なくても、父も長姉も次兄もいたので
寂しい思いは全くしなかった。


東京に出てくる時、私はずっと膝の上に
母の遺骨を抱いていたが、
生まれて初めての長い列車の旅に興奮して
窓の外が気になって、正直な気持ちは
とても楽しかった。


母親に対して情が薄かったんだろうか?
母親を亡くした事よりも、
自分の身に起こるこれからの事で
ワクワクしてた気がする。


今、思えば母親が亡くなったと言う
実感がなかったんだろうと思う。
濃い密度の母子関係ではなかったから。
寝たきりの母親しか記憶にないから。


あれから何十年、それでも命日になると
あれこれ母を思い出す。
短かった人生だったけど、
母はきっと今はほとけさまになって見守ってくれてるかも?


かあちゃん、ばっちのあなたの娘も
もはやばばあになりました。


私は全く母に似てない、父親似です。
この写真の母はいくつだったのか
全くの謎です。(^_^;)
時計をして中指に指輪してる?
山形の田舎での写真ではなく
たぶん東京に住んでた時だろうと思う。
髪型もおしゃれだし😊


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