明日は明日の風が吹く・70代日々の綴り

(月の雫・・・)からのブログ名変更してます)

今更になって生きてる意味を考えても仕方がない
今、生きてる事が重要
来るであろう明日、来ないかもしれない明日
人はそう言う薄氷の上で
毎日を過ごしてるのだと思う
だから、今日が大事、今が大事
明日は明日の風が吹く

根底にある故郷の血

福岡にも美味しいお米がたくさんある。
でも、私は故郷にこだわる(笑)
故郷の農協のサイトでお米や特産品を買う。
故郷には10歳までしかいなかった。
東京に引っ越し23歳まで東京暮らし、
そこから福岡に引っ越し人生の大半を過ごして
確かに愛着はあるし終の棲家だと思い
本籍も福岡に移したが
どうしても山形の血が濃いと思う。
小さい時に食した物の美味しさを忘れられない。



父方は名古屋方面出身だが、母方が山形で私は山形で生まれた。
末っ子の私以外は全員が東京生まれだが
戦争を機に母親は実家を頼り疎開したのだ。
父親は戦争に駆り出されて留守だったのに
どうして父方ではなく母方の実家?と不思議でならなかった。


それは数十年経ってようやくおぼろげに真相がわかった。
戸籍(除籍簿)はさかのぼればいくらでも入手出来る。
除籍簿が役所に残っていればだが、
その頃はまだ相当さかのぼれた。


ある時、もう10年以上前かな?
私は父方の戸籍を取り寄せた。
父の父、その父、そのまた父、その父と本籍住所の役所に電話して
片っ端から謄本を郵送で送って貰った。
安政、嘉永の辺りでもう辞めた。
まだ先があったのかどうか分からないが
嘉永の頃の戸籍までたどれるのには驚いた。
文字が全く読めないような漢字ばかりの除籍簿。


父親の戸籍を見て驚いた事。
祖父の戸籍に祖父の養子、直系の子として縁組みされていたのだ。
祖父の家には女子が5人も立て続けて生まれていて、
跡取りがいなかった。
つまり、父親は祖父の兄弟(分家)の子として産まれたが
跡継ぎの居ない祖父の所に縁組されたわけだ。
祖父の奥さんの欄に「嫡母(ちゃくぼ)」と記載されてる。
嫡母ってなんだ?と調べたら
祖父が父を養子縁組した時、正妻が嫡母となるようだった。


(最近、見てた中国ドラマ「明蘭・・・」の中に
嫡母と言う言葉がやたらに出て来るので結構笑えた(笑))


思い出してみたら、そう言えば父親には2つ名前があった。
そこも不思議だったが、養子になってから改名したのだろうと思う。
父親がいくつの時か分からないが・・・
父方の親戚との交流はほとんどなかったようで
私は全く知らない。
母方の田舎は少しだけ大きな農家で
私が物心ついた時はすでに叔父(母の兄)が家を継いでいて、
私には従兄弟やはとこなどたくさんいた。


従兄弟はすでに成人だったし、
一番下の男の子が五郎と言う名前の通り5番目。
いわゆる一郎、二郎、三郎、四郎、五郎と言う順番。
その下には私とあまり歳の違わない女の子が一人。


母親を亡くした地でもあるが
思えば毎日楽しい事ばかりだった記憶しかない。
春夏秋冬、どの季節も楽しかった。
今でこそ有名で高価なサクランボは、たいていどこの家にも木があって
普通にどこの家のサクランボでも取っておやつに食べても
叱られることなどなかった良き時代。


この頃に食べたもので出来上がってるであろう
私の体には、確かに山形の血が今も脈々と・・・(笑)
東京での生活も楽しかった。


一番つらい思いをしたのは、福岡に来て夫を亡くした事だ。
結婚してからずっと夫の実家のあった場所を本籍にしていたが
夫を亡くしてから、しばらくして今のわが家を本籍に換えた。
本籍が遠いと何かと手続きが面倒だった事や
私が死んだら子供たちには夫の本籍には何のこだわりも
愛着もないだろうし、
面倒な手続きをさせたくないと言う思いからだ。
子供たちは福岡生まれだし福岡が故郷なのだから。


夏になれば、山形の出汁がわが家の食卓に並ぶ。
こんな感じ・・・(画像お借りしました)


除籍簿・・・・嘉永5年、今から169年前!!
確かに存在した私のご先祖様・・・・😭


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