明日は明日の風が吹く・70代日々の綴り

(月の雫・・・)からのブログ名変更してます)

今更になって生きてる意味を考えても仕方がない
今、生きてる事が重要
来るであろう明日、来ないかもしれない明日
人はそう言う薄氷の上で
毎日を過ごしてるのだと思う
だから、今日が大事、今が大事
明日は明日の風が吹く

母の命日 時は流れ過ぎて・・

今日、11月23日は母親の命日だが、
もう思い出も遠すぎてあまり思い出すことがない。
昭和33年の11月23日。
母は48歳だった。


兄、姉、兄、姉、そして私と5人の子供を産んで
戦前、戦中、戦後も生き抜いた人だったのに
10年に及ぶ長患いで亡くなった。
直接の死因は心臓麻痺だったそうだが
お腹に水が溜まっていたので
肝臓か腎臓?が悪かったのかも知れない。


毎日、夫のお仏壇の前に座る時は
必ず、先に逝った両親と姉二人と下の兄と
9月に亡くなった義姉の名前を呼びながら
安らかに・・・と願っています。


母の記憶はいつも布団に横たわってる姿ばかりだ。
私を産んだ後の産後の肥立ちが悪く
ずっと寝たり起きたりだったそうで
勿論、母乳は出ず、隣の家のおばちゃんからの
貰い乳だったらしい。


おばちゃんも同じ時に赤ちゃんを産んだので。
(その子は同級生で仲良しだった)
(ただ、田舎では珍しく粉ミルクを入手する事が出来て
(母親のかかりつけの病院から分けて貰ってたらしい)
それでも足りない時は、ヤギのお乳も飲んだと
後から一番上の姉に聞いた事があった。


よく育ったものだ(爆)
病気ひとつしない、風邪ひとつ引かない子だったそうだが
田舎の子は、総じてみんな元気なもので
裸足同然で野山を駆け回っていた。


弱っちいのは村長さんちの娘やら
お大尽の家の色白の息子ぐらいだ。


このお大尽の息子が私の初恋の子。
この子が級長さんで、私が副級長さん。
ずっと1年生から同じクラスだった。


母親が亡くなって、東京へ引っ越す汽車の中(汽車でした)
私はずっと母の遺骨を膝の上に置いて
抱いていました。


駅弁を食べたのもこれが初めて。
そして東京の家について、
ようやく母は小さなお仏壇の前で
しばらくの間、父や私の側にいたけれど
ある日、とうとう納骨の日が来て
母は土に還りました。


母親が亡くなったのは私がまだ10歳。
生活ががらりと変わってしまったが
母親が居なくても姉が二人いて
父親もいて寂しい思いをせずに
日々を過ごしてきた気がする。


東京での生活は田舎での暮らしから思えば
毎日が夢のようだったから。


物心がついて母の事を姉たちから聞くたびに
私が生まれたから母は病気になったのだと
思う事もあったけど、
以外に逞しく東京の生活に慣れ
母を恋しがることもあまりなかった。


ただ、母の日になると
学校で母の日には白いカーネーションを
先生から渡された事だけが寂しかった。


母の歳をとっくの昔に超えて
段々と母のいる場所に近づいているのだろうが
いつか会えた時には、
子供のままの私で会いたいものだ。


この写真、去年もブログに載せた気が🤣
母親の写真はあまりないのです。


唯一の母との写真、姉二人と叔母と母と私。
母はもうすでに全身がむくんでいて
週に一度、お医者さんが来て腹水を抜いていたので
たぶん末期だったのだろう。






後から

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